60歳前のおじさんはどんなことを考えるのか?なぜ、いきなりヒマラヤへ?ぶらっとヒマラヤへ行けるのは若者じゃなきゃ無理じゃないのか? なんて事を考えながら読みました。山に登る人多いですよね。私も高校は登山部でした。
私は現在40歳。60歳まで生きていれば20年後だ。20歳の時に20年後を想像することは全くできなかった。この20年を振り返ると、ついこの前のように思い出せる。
このペースでいけば、人生最後の時には「ああ、あっという間の人生だったな」と思うに違いない。
著者の藤原章生さんは58歳の時に、登山仲間の斎藤明さんに誘われてヒマラヤ山脈にあるダウラギリという8167mの登山に向かいます。登山の途中なぞの多幸感に襲われます。
テントで誰に見られることもなく、たった一人なのに、孤独の中で私は、私そのものに満たされ、とても明るかった。中略。まさに舞い上がるような多幸感の中に私はいた。 p74
私は20代の時に四国お遍路88か所を徒歩で全部回りました。その時に不思議な体験をしたことを思い出します。歩いている自分を空から眺めている自分がいました。その時は、20㎏の荷物を背負い急な山道を登って意識が飛びそうなった直後でした。幸福感が全身を駆け巡り、すべての事に感謝をしたい気分になったのです。頭の中で何かが起きたことは確かです。だから藤原さんのこの感覚よく分かります。
酸欠で多幸感や絶望感を感じることがあるようで、時には幻覚も見るようです。
なるほど。あの時自分は酸欠直後でした。
なぜ山を登るのか?
山を登る理由に死がある。中略。死を感じたい、死を確かめたい、すなわち生の確かさを実感したいといった欲望が、人の中には意識するにせよしないにせよ、備わっているのではないか。 p120
尊敬してやまない角幡唯介さんも同じような事を言っていました。
また、村上春樹さんの短編の『蛍』に
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している
とも言っています。
たしかに私たちの体では毎日、細胞や記憶は死に、また再生・再編しています。死がない生はありえない。死の恐怖から生還したときに人はもっとも幸福を感じるのかもしれません。生きて生きて死ぬのではなく、生きて死んで生きて死んでを繰り返しているのが私たちなんですね。
天候の関係でダウラギリ登頂は果たせず、日本に戻ってきます。そしてヒマラヤへ行ったあとの情熱や達観についても語ります。
嫉妬と情熱は抱き合わせ。嫉妬を捨てて達観した途端、情熱は消えてしまうのかもしれない。p220
年をとり情熱を維持するということは難しい。20代より40代のほうが情熱は減った気がします。その分、気楽になっている気もしますが。でも情熱を失って生きていく事は楽しいんでしょうか?これは40代に突入した自分の課題でもあります。
最後にこう締めくくります。
自分が生きていることを、生きていていていいんだということを、60歳を間近にして、再び知りたかったのだろう。 p236
人間は頭がでかくなりすぎて、生きていくのに生きる意味を探すようになりました。ほかの動物が生きる意味を考えているとは到底思えません。
「生きていていいの?」と悩むのは人間の業なのだと思います。
無条件に「生きていていいんだよ」というその言葉は救いになるような気がします。
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