未来を見つめて、今を直視できない私たちへ
帯にあり、何度も見返してしまいました。
大好きな角幡さんの新刊本です。冒頭には写真も多く、いつも頭の想像の中にあったシオラパルクの村も載っています。
シオラパルクは最も緯度が高いところにある村で、グリーンランドにあります。
グリーンランドからカナダへ凍った海峡を渡る旅の計画を立てます。
そんな時に、コロナ禍が発生して計画は頓挫する、というところから始まります。
日常の安全が脅かされた事態が発生したときの日本人の思考は
現代日本社会では、安全こそ、自由や人権よりも価値の高い概念として希求されている、と思わずにいられない。 p28
安心安全がそんなに大事なら、家の中でポテトチップスを食べて一生暮らせばいいじゃないか、でもそんな人生が面白いか? p29
角幡節がさく裂! こういうところが好きです。
個の自由や人権よりも、集団の安全を優先するのが日本社会です。ズバリ!と言ってくれています。
私たちから見たら無謀とも思える数々の旅を行ってきた角幡さん。
私は『空白の5マイル』を読んだ時の感動を忘れません。
死と隣合わせだからこそ生が輝く。
現代人は「未来予期」の中で生きてしまっていると。
コロナ禍により、未来が見通せなくなったことが最も人々にストレスを与えている。
だけど、未来予期ができないのが本当の現実であるといいます。
未来予期があたり前になると、その未来予期を通してしか現実を見ることができなくなり、結果、現実のほうを未来予期にあわせて・・・実存が陥没し、俺は何のために生きているんだろう、との虚無に陥り、生活がつまらなくなる。・・・目の前におきている現実に生きる瞬間こそ、人間の生が動き出す始原があるはずだ p39
この虚無に陥るという言葉が刺さりました。
予定通りに事が運ばないとイライラしたり不安になったりします。
しかし、明日も明後日も毎日同じような事ばかりだと虚無に陥って、鬱っぽくなっていく感覚があります。生を実感できなくなってきます。
そこに「変則的な何か」を日常に入れ込み楽しまないと結構人生つらいです。
シオラパルクの人々は狩りでアザラシやジャコウウシ、アッパリアス(鳥)などをとります。予期どおりに行きません。その都度その都度、思考し工夫し生活をしていきます。
角幡さんの旅のスタイルも計画を立ててそれに沿って行くということから
「漂白」スタイルとなっていきます。
目的地を決めるのではなく、今目の前に生じる事象や出来事、あるいはそこに姿をあらわした他者、動物など生ける主体に巻きこまれ、その関わりのなかから新しい未来が生じる、そうした時間の流れに身を置くことである。 p109
これが「狩りの思考法」です。
生を実感できる場所が角幡さんにとってはシオラパルクなのかもしれません。
僕は昔よくヒッチハイクをしていました。誰が乗せてくれるかわからない、どこに寝るかわからない、何を食べるかわからない、誰と話すかわからない。
そういった不確定性がとても楽しかった記憶があります。
人との会話もとても楽しかった。コミュニケーションって楽しいんだと純粋に思えました。
未来予期を行わないのではなく、できない状況は生きている実感を与えてくれていました。
イヌイットがよく使う言葉に「ナルホイヤ」というものがあるそうです。
ナルホイ今日の予定を聞いても「ナルホイヤ」、明日の天気を聞いても「ナルホイヤ」、お父さんは今どこにいるのと問う予定を聞いても「ナルホイヤ」と、会話のさまざまな局面でナルホイヤが登場してそのたびにいきづまる。 p66
今後どうなるかは本質的には誰にもわからないというニュアンスがあるようです。
「明日も生きていますか」
「ナルホイヤ」
確かに。
関西人が会話の語尾につける「・・・、知らんけど」に似ていると思いました。
関西人は狩りの思考だったのか。
角幡さんはイヌイット達の民族的美質は現場性にもとづく創意工夫と知恵だといいます。ありあわせの道具を使って自分でものをつくる能力。この能力が高い人が評価されるのだ。計画的思考とは真逆な考え方だ。
私たちの生活の99%は計画性の中にいると思います。
学校教育で特に感じます。すべてが計画通りです。その中での創意工夫はありますが基本的にはひな形があり教える内容もがっちり決まっています。
それはもう仕方がないので、子供には学校外では自由に育ってほしいと思っています。
学校教育とは真逆な事を教えることはありますが、私はそれでいいと思っています。
学校を休みたいといったら、休ませて家で自由に遊ばせます。理由はなんでもいいけど、ちゃんと自分で電話するようにしてます。
学校は目的ではなく手段なので手段は選択肢が多い方がいいはずです。
角幡さんの文化人類学的な思考が詰まった一冊です。
冒険家というよりも在野の哲学者になりつつあるようです。